罰則条項


 それでも、肩と腰はしっかりと成歩堂に捕獲されたままだったので、響也は眉間の皺を深くして、その男を睨み付ける。
「…っ、何のつもりだ…。」
 大きな声を出すのは憚られ、低く唸る。
「一度アンタと寝たくらいで、気易く出来ると思うなよ。第一、忘れろ言ったのは…「キャンキャンと煩く吠えるもんじゃないよ、牙琉検事。」」
 語勢は強くない。寧ろ、静かな程だった。けれども、響也の顔に吹き付けてくる男の圧力は法廷で感じたものの比ではない。強烈過ぎて、ただ圧倒される。
 自分の何が、こうも成歩堂を憤らせているのか理由がわからず、響也の心情は怒っているというよりも、戸惑っているや情けなくなっているというものに近くなっていた。
 どんな理由であれ、成歩堂は酷く怒っている。
 兄や相棒を呆気なく失ったように、目の前にいる人物も居心地が良いと思った場所も失ってしまうかもしれないのだ。情けないけれど、それは酷く寂しい事だと響也は思う。
 それと、同時に力を込めていた腕をゆっくりと下ろす。
 認めたくは無かったが、今、『全知全能の神』は成歩堂自身だた。神の怒りを解く為には、懺悔し相応しい罰を受けて許しを得なければならない。
「待った、待ってよ、成歩堂さん。
 あの時は自分でも気付かなかったけれど僕は凄く参っていて、それを受け止めて貰った事も感謝している。好きでもない僕を相手に優しくしてくれた事も嬉しいと思っている。確かにアンタの優しさに甘えている事も認める。
…でも、これから先、アンタとそういう関係を続ける事とは別の問題だろ? 僕は、自分の事を好きでもない相手に、全部を晒す事なんか出来ないよ。」
 今度は遮られる事なく告げた言葉に、成歩堂は嗤った。
「それが、いやらしい顔で接吻を受け入れた答え?」
 カッと頬が羞恥に染まるのがわかる。ずっと、観察していたなら最悪の趣味だ。
なんで、こんな男を大切に思っているかと本気で後悔する。
「離せ…っ!?」
 振り上げようとした手首を掴まれた。一度抜いてしまった力は、容易に元の均衡には戻らない。捕獲の力が強くなり、成歩堂の顔が近付く。
 仄暗い瞳の奥には、明らかな熱が踊っていた。それが、怒りなのか、情欲なのか判断は出来ない。
「君のイク時の貌が見たくなった。」
 ぞっとするほど、ストレートな誘い文句だった。勿論、この男は自分を誘うつもりなど欠片もないのだ、命令だ。
 その証拠に回答の必要などないと言わんばかりの接吻が、響也の唇を塞いでいた。
 

 普真っ暗な事務所の窓に灯りが見えた時から、彼がいるだろうとは思っていた。
成歩堂がドアノブを回せば、僅かに隙間が開いただけで、王泥喜の声がする。
「みぬきちゃんは、仕事に出掛けましたよ。」
 入口の横にある机に座って日誌を付けていたらしい王泥喜は、手を止めて成歩堂を見つめていた。絆創膏は外したものの、額には紅い痕が残っている。
 それは、怪我ではなく別の(痕)を成歩堂に連想させるから、ポケットに隠した手が強ばるのを感じ、しかし成歩堂の口角は上がった。どうにも素直ではない性格だと自分でも思う。
「今日は、早いんですね。」
「仕事の事だったら、今夜は休業だ。無敵なお仕事も弾けないピアノも、両方ね。」
 王泥喜のどんぐり眼が真ん丸になって、そして眉を潜める。何か聞いてくるのかと思えば、日誌を閉じて立ち上がった。
「じゃあ、お茶でもいれますよ。俺も飲んだら帰りますから。」
「うん、そう?」
 給湯室に向かった王泥喜を見送り、成歩堂は草臥れたソファーに音を立てて沈む。ドサッと固い音が示す通りに柔軟性に欠けたそれは、成歩堂の腰に微痛を与える。
(…っ…)
 痺れる怠さが殆どの痛みに、苦い笑いが浮かんだ。
 自分ですらこうなのだ。固い壁を背にした彼はさぞかし痛いだろう。そもそも、こういう痛みは受け入れる側が、総じて享受するものだ。若さで振り切り、成歩堂の介添えを断った響也が、脚を踏み出した途端悶絶した様子を思い出すと、自然と顔が緩んでくる。それでも意地を張る彼の為に、タクシーを呼びマンションまで連れて行ったのだ。
 車の振動に必死で耐える顔表情が酷く可愛らしく、(いい顔だね)と言えば、涙目で睨み返された事を思い出し、気分はいっそ愉快にまで跳ね上がった。
 我ながら意地が悪いと思うのだが、正直なところ、取り澄ました彼の顔よりも余裕を失った響也の顔が好きだ。必死に自分に取りすがってくる様を見せられると、もっと責め立ててやりたくなるから不思議だと思う。

 だから、余裕たっぷりに、王泥喜にキスを贈る響也など見たくなかった。

「はい、どうぞ。」
 向側から、丁寧に置かれた湯飲み茶碗の中で薄い緑が揺れていた。王泥喜はそのまま成歩堂の前に腰掛ける。下を向くと額が少しいびつで、瘤が出来ているのがわかった。それでも、鬱血した跡はキスマークのようだ。
「今日は大事なくて良かったねぇ。」
「ええ、まぁ。みぬきちゃんが無事なんで、もう何でもいいですよ。」
 ふてくされた言い方に、成歩堂はハハと笑う。
「入院とかしたら、金ないしね。」
「…。」
 ちらと送られた視線は、剣呑な色だった。聞いてくるだろう答えを、心のなかで模索する。動揺を見抜かれない為に必要なのは、その質問が突発的なものにならない事が第一だ。
 王泥喜という男を信用していない訳ではない。寧ろ、信頼はしている。それは愛娘も同様で、それ故に、牙琉響也と自分の関係を、易々と彼に悟らせる訳にはいかないのだ。

「…いままで、牙琉検事と一緒だったんじゃないですか?」
   
 来るだろうと思っていた(問い)には動揺は無かった。
首を横に振り、どうしてだいと逆に聞いてやる。そうすると、『いや、その』と歯切れが悪い。それでも視線を外さない王泥喜に苦笑する。
「じゃあ、一緒だったと仮定しようか。君はそれが気になるの?」
 そう言うと、王泥喜はふるりと首を横に振った。
「…だったら、君はなんでそんな事聞くのかな?」
「率直に言うと、俺が気になるのは、今まで何をしてたかじゃなくてアナタの事です。牙琉検事が俺にキスした時、成歩堂さんは明らかに緊張しました。」
 途端、僅かに感じる緊張を、王泥喜が見逃すはずもなく『そうでしょう』と瞳が告げてくる。
 此処では下手に隠すより、あっさり認めてしまった方がいい。
みぬきの難点は、動揺はわかっても、その原因が特定できなければ意味がないという事なのだ。
「ああ、見てたの?」
「はい、だからみぬきちゃん相手なら納得します。でも、どうして相手が俺でも緊張するんですか?」
 彼の言葉に、王泥喜が気にしているのは自分の事なんだと気付いた成歩堂は、勿体ぶった様子で、ニット帽を片手で降ろして王泥喜を見つめた。
「まぁ、その君を牙琉検事に盗られるような気がしてね。
 なんたって、君も僕の可愛い息子だし愛おしいと思っているよ。…パパって呼んでくれていいんだよ?」
 にっこりと笑ってやれば、王泥喜の顔が土気色に変わる。勝負あった、成歩堂は確信する。
「…お先、失礼します。」
 宿に下がるやどかりのように後ずさり、王泥喜は逃げるように事務所を後にした。
 明日から、彼が事務所に来なくなったらどうしようかなどと思いながら、成歩堂はクスクスと嗤った。


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